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無限と永遠
(おそらく)全世界の広がりは無限であり時間は永続する。

しかしながら、その中で創造の力を発揮することはできる。 わたしは貧しい存在ながら、共に生きることを喜びとする世界の達成を目標として努力しようと提案します。もっとも、大きな事柄よりも日常のひとつひとつのことのほうがより大切な場合もあるかもしれませんが。

ひろがりが無限であるため、物理的に果てに到達できないけれど、そのなかで、わずかでも創造の力を発揮することはできる。広大な宇宙のなかではほんの小さな地球でさえ、平和でない状況が続いている。力を合わせて改善すべきだろう。


無限について

世界をどこかで限っても、かならずそれ以外の範囲が存在する。そのため絶対的な無などすべてを含めると、その広がりは無限である。

この無限に広がる世界は「すべて」であり、空論や空想ではなく実際に存在する。

デカルトの「我思うゆえに我有り」は、「存在しなければ思うことはできない。思っている我は幻ではなく実際に存在している」ことを表している。存在しなければ行為できないし、受け手ともなれない。キャッチボールを考えれば良い。「存在する」とは行為、知覚の主体、客体となっていることである。

これにたいして、「無」について述べる。「無」とは正しくは「無のような存在」である。

この「無のような存在」は、「相対的な無」と「絶対的な無」にわかれる。相対的な無とは、ある存在にとって行為、知覚の主体、客体とならない状態である。例えば、紫外線は存在するが、人間の五感にとっては無である。計測器を使えば間接的に人間の知覚にとっては存在となる。

「絶対的な無」とは、いかなる存在にとっても、言葉以外に、行為、知覚の主体、客体とならない状態である。言葉によって対象化できない事象はない。感覚的に述べれば、「無を対象化する、無と名づける」ということである。言葉以外に、感覚的に言いかえると「ほとんどすべての存在にとって」、行為、知覚の対象とならない状態でも、それを「絶対的な無」と名づけることができる。したがって「絶対無」はありえない。

「存在」と「無のような存在」を以上のように定義するが、これらは机上の空論ではないだろう。

具体的に述べると以下のようになる。
宇宙の果てを目指して、宇宙船を飛ばしていく。しかし、果てはない。その先が必ず存在する。仮に壁のようなもので、囲まれているとする。しかし、これも果てではない。壁とその厚みとその向こう側が必ず存在するからである。仮に宇宙の広がりが風船の内側のようになっていたとする。しかし、風船の外側がかならず存在する。そして、かりに「何もない状態」に囲まれていたとする。しかし、その「何もない状態」も含めると、無限になるのである。

私の述べる「すべて」はこの「存在」と「無のような存在」によって構成される、例外のない、実際に存在する、無限に広がる世界なのである。

*「すべて以外」、「すべてを限る」は言葉の誤りである。
*幻覚は無ではなく、誤った知覚である(すなわち何らかの存在である。)