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平和の基礎理論2(作成中)(ブレインストーミング中)
宇宙の中の地球という観点から平和の基礎理論2を作成してみようと思っています。ブレインストーミングをしています。

宇宙の中の地球
無限=未知の領域の必在→脅威の必在
軍事・非軍事的発達の必要性、平和創造力の発達の必要性
訓練が実戦を上回るようになれば無益な戦いは減るのでは?
理想=訓練が実戦を上回る
無益な戦い=地球上の戦いの一因?
バーチャルリアリティの発達
将来に実現しそうな「現実を上回るような訓練」の例は、「スタートレック」にて見ることができる。コンピューターが作り出す立体シュミレーション空間・・・カフェのような場所と人々を作り出していた。「スタートレック」でよく見る「転送」をもとにしている?人間を記号化して別の場所で再現することが可能ならば、元が無くても、記号化した情報を具体化できる?コンピューターがつくりだすさまざまな状況の「現実」のなかで訓練できる。ネクストジェネレーションシリーズだったと思うが、その巻のタイトルは?もうひとつは射撃の訓練。人型の的がでるのではなく、空中に浮いている色の変わる球体が的。赤く変わったときに光線のようなものを当てると緑に変わる。・・・この訓練は、敵を破壊するのではなく、止めるべきとき(赤くなった時)に光線のようなものを当て、緑(危険でない状態)に戻すことを意味していると考える。赤、緑の色はよく覚えていない。他の色だったかも。
 あるいはバーチャルリアリティーが発達して、スタートレックの具体化ではなく逆に仮想空間に人間が入っていく・・・マトリックスのような感じ?
地球の発達以外の無益な争いを減らす
そして地球の発達は訓練によって

テロ・・・作られたテロリスト集団?時代の要請にあっているのは偶然or得体の知れない力によって作られた?

冷戦→低強度紛争という流れ(国際問題入門(著者:土生))に最近は対テロ戦という流れが加わったのはあきらかだ

テロリストはそれぞれの思惑で行動しているが、地球的には「時代の要請=(対テロ戦の経験)」?に踊らされている。(踊らされたという表現は不適切?「動かされた」のような表現に変更予定(2007年5月21日))

具体例を挙げる。イラクで続発する(自爆)テロ。テロリスト達は、彼らにとっては、アメリカ、異なる宗派と戦うために、時には自らを犠牲にしてテロ行為を行っている。しかし、別の見方をすれば、彼らは対テロ戦という時代の要請のために、得体の知れない力によってテロリストとして踊らされているのではないか?
結果は、イラクという場所で、実戦として対テロ戦が経験され、世界はテロに対する抵抗力をよりつけただけではないか?

日本で起きた地下鉄サリン事件。オウム真理教の一部の人たちが、組織的に各地の地下鉄で有毒のサリンをまいて、死傷者が出た事件。(はじめに断っておきますが、わたしはいかなる人殺しにも反対です。)オウム真理教の人たちは、自分達の理想や目標、戦いのためにサリンをまいたと思いますが、地球的には、日本という先進国が、対テロ戦の実戦経験を積むことによって、より、テロの起き難い、テロに対応できる社会になるために、得体の知れない力によって「踊らされた」のかもしれない。

日本が中国などで第二次世界大戦中に行ってとされる人体実験(参考「悪魔の飽食」森村誠一、「海と毒薬」遠藤周作・・・後者は事実無根のフィクション?)。細菌兵器の開発などを「戦争に勝つために」行っていたが、視点を変えれば、地球上の人間という生物の様々な知識、データが蓄積された?彼らは気づかぬうちに得体の知れない力によって踊らされた?

得体の知れない力を全面否定するわけではない。得体の知れない力は複数存在するかもしれない。
世界はどれだけ幸せになったのか。そのために得体の知れない力はどれだけ働いたのか。
世界を動かす得体の知れない力があるとするならば、私たちにできることは犠牲をできるだけ減らすよう、祈ることのみか?

破壊的な武器を取らずに、武力闘争ではなく、より建設的な行動でより平和な世界を築けるのではないか?

世界はテロの経験によってよりテロの起こりにくいより平和な世界になるだろうが、他の道はないか?
犠牲はもっと減らせないか?

それでも現実は理想に優先する?
平和主義者の立場と政治家の立場
JC(平和)主義の立場なら活動を、犠牲が生じないまでに限定? 犠牲と言う現実から逃げている?JC主義者だから仕方ない。扱わない。 軍事力がなければより犠牲が増えていた場合
その他の分野で努力?
犠牲を黙認している?
私にとっては解けない、あるいは解くべきでない問題?
知りたくない現実?
人類が宇宙で生活できるようになっても武力紛争が起きる?(繰り返すあやまち?)

正しいとは何か?
現実的に長期的に見てもっとも犠牲が少ない?
もっともJCに近い?
いずれの理由にせよ「殺すな」「敵を愛せよ」というルールが正しいとすれば、それに反する行為は正しくない。
ところがその正しくない行為によって現実的平和が保たれている場合もありうる→暴力や強制力が正しくないとする謙虚な考え方が暴力や強制力の不必要なエスカレートを防ぐのに有効ではないか?←ジレンマ?→ある面、正当化されない力は行使しがたい(兵が従いにくい)


”ともに生きる”のが究極的な平和なのだ


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