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宇宙の果てはどうなっているのか?(最終更新日:2023年5月24日)

果ては無い。無限に広がっているのである。

具体的に述べると以下のようになる。
宇宙の果てを目指して、宇宙船を飛ばしていく。しかし、果てはない。その先が必ず存在するからである。

仮に壁のようなもので、囲まれているとする。しかし、これも果てではない。壁とその厚みとその向こう側が必ず存在するからである。

仮に宇宙の広がりが風船の内側のようになっていたとする。しかし、風船の外側がかならず存在する。そして、かりに「何もない状態」に囲まれていたとする。しかし、その「何もない状態」も含めると、無限なのである。



仮に、もし宇宙が3次元トーラス構造だとしても、有限の3次元構造体である以上、それはXYZ軸からなる無限の空間の中に納まるはずであることからも全宇宙は無限である。すなわち、有限の3次元構造であるからには、無限であるXYZ軸に内包されるはずであり、逆に言えば、3次元トーラス構造の外側にXYZ軸が(その先はどこまでも)広がっているのである。

ちなみに、仮にもし「真っ直ぐに突き進む」ことによっても、ループして一定地点より先に進めない(どこまでまっすぐに突き進んでも、堂々巡りなどになってしまう)ことも、空間が曲がらない3次元トーラス構造などもこのループ構造に等しく、宇宙がプログラム上のものである場合、ありうるが、一定地点より先の「無」なども含めると、やはり全宇宙は無限なのである。

本当だろうか?と疑問を持つかもしれない。
しかし、論理的に考えれば明らかなのだ。

世界をどこかで限っても、かならずそれ以外の範囲が存在する。そのため絶対的な無など含めた「すべて」の広がりは無限である。
これは理解いただけただろうか?

詳しく述べると以下のとおりである。
ある領域Bを想定すると、同時に領域B以外を想定しているのである。
では領域Bを想定したところで、領域Bは存在するのだろうか?存在していないのかもしれない。領域Bが存在しなければ、領域B以外を想定できない。

では逆に領域Bが存在すればどうだろうか?当然領域B以外も存在するのである。



それでは領域Bの存在を論証しよう。これはデカルトの言葉による。

デカルトの「我思うゆえに我有り」は、「存在しなければ思うことはできない。思っている我は実際に存在している」ことを表している。まず「我」の存在は論証された。そして我の存在する場所である世界(領域B)も存在することも明らかである。ゆえに領域Bの存在も同時に論証された。

<*2020年10月29日:ここにあった一部間違いを含む図を削除いたしました>

ちなみに「存在する」とは行為、知覚の主体、客体となっていることである。存在しなければ行為できないし、受け手ともなれない。キャッチボールを考えれば良い。「存在する」とは行為、知覚の主体、客体となっていることである。

では、「無」とは何だろうか?この質問は「我」や世界(領域B)以外の存在を考えるために重要である。

「無」とは正しくは「無のような存在」である。 端的に言えば「無」とは存在の一つなのである。わかりにくいだろうか?「無」を分析して考えてみよう。

この「無のような存在」は、「相対的な無」と「絶対的な無」にわかれるのである。相対的な無とは、ある存在、その状態にとっては行為、知覚の対象になるが、ある存在、その状態にとっては行為、知覚の主体、客体とならない状態である。例えば、紫外線は存在するが、人間にとってはそのままでは五感で知覚できない「無」である。計測器を使えば間接的に人間の知覚にとっては存在となる。

これに対し「絶対的な無」とは、いかなる存在にとっても、言葉以外に、行為、知覚の主体、客体とならない状態である。この「絶対的な無」は一般的に言われる「無」である。しかし言葉によって対象化できない事象はない。感覚的に述べれば、「無を対象化する、無と名づける」ということである。言いかえると、言葉以外に「ほとんどの存在にとって」行為、知覚の対象とならない状態でも、それを「絶対的な無」と名づけることができる。対象を正しくとらえたうえで名づけることができているので、すなわち、知覚の対象となり存在しているのである。したがって対象化できない、存在しない「絶対無」はありえない。「絶対無」は言葉の誤りである。
「存在」と「無のような存在」を以上のように定義する。

それでは本題に戻る。

宇宙の果てはどうなっているのか?

果ては無い。無限に広がっている。

世界をどこかで限っても、かならずそれ以外の範囲が存在する。「我」が存在する場所が世界であるから「我」と「世界」が存在することは明らかであり、同時に「それ以外」も存在する。そのため「絶対的な無」など含めた「すべて」の広がりは無限である。

言い換えると私の述べるこの「すべて」は「存在」と「無のような存在」によって構成される、例外のない、実際に存在する、無限に広がる世界なのである。

「すべて」とビックバン

「すべて」は永遠に存在し続ける。無くならないからだ。このことに始まりも終わりもない。
なぜなら、始まりとは「それ以前が無いこと」終わりとは「それ以後が無いこと」を表すが、
全てはあり続け、無くならないからである。
つまり、全ては、始まりも終わりもなく、永遠に存在し続けるのである。

この真実に違和感を覚えるのであれば、それはおそらく錯覚に起因する。
私たちは経験上、ほとんどの物事に始まりと終わりがあると認識しているだろう。
しかし、それは仮にほとんどであったとしても、絶対ではない。
「全てが存在し続けること」のように、始まりも終わりもないことがあるのもまた真実なのだ。
さて、現在の宇宙論では、ビックバン(の特異点、特異領域)が宇宙の始まりであるという。
この宇宙論は「「全て」に始まりも終わりもない」ことと、一見、矛盾している。

しかし次の考え方では矛盾しない。
それは、
ビックバンは「全て」whole universe の一部の始まりである。
という考え方である。

現在から過去に遡ればビックバンの特異領域は時間と空間の生まれるところ、なのだそうだが、それは「永遠に存在している全体」のうちの、ほんの一部の始まりに過ぎないと考えるのである。

なぜなら、特異点、特異領域という考えは、その周辺に「無」を想定しているはずであるが、
私の述べている「全て」は「無」も含めた存在であるからである。

無限にして永遠である「全て」は始まりもなく終わりもない。そのうちの一部分でビックバンが起き、一部の時間と空間が始まったと考えるのである。


ひろがりが無限であるため、物理的に果てに到達できないけれど、そのなかで、わずかでも創造の力を発揮することはできる。広大な宇宙のなかではほんの小さな地球でさえ、平和でない状況が続いている。力を合わせて改善すべきだろう。

*「すべて以外」、「すべてを限る」は言葉の誤りである。
*幻覚は無ではなく、誤った知覚である(すなわち何らかの存在である。)
*「絶対無」という言葉は厳密には言葉の誤りである。あり得ないのである。