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平和の基礎理論

「真の平和」とは「ともに生きることを喜びとする社会」である




ポイント

1.社会は人と人のつながりから成る
2.平和の概念は多様だったが、要は人と人のつながりのあり方
3.それが快→喜びであれば良い
4.さらにはそれがずっと続くのが理想
5.そのためには「敵を愛せ」という言葉を守るのが大事



”いちばん大事なのはみんなが仲良く楽しくあそべることでしょ。 それから、世の中に戦争がないこと。”

リビツァ (旧ユーゴスラビアの女の子)


”汝の敵を愛せよ”

イエス


”私はあなたがたにあたらしい掟を与える。互いに愛し合いなさい”

イエス


まえがき



作者自身の誤りや不完全を認識しつつ、平和の実現を目標として述べます。 もし、ある生命、集団が他の生命、集団に対して優越であると主張するならば、その心と行動と、何より結果についてはどうでしょうか? 本当に優越しているのならば、愛においてはどうでしょうか?敵をも含めて共に生きることを恒に喜びとする状態を目標として、それを現実の中でより高く実行する心と行動と何より結果においてはどうでしょうか?  そして、暴力に対する暴力の報復は、「ともに生きることを喜びとする社会」という目標に反して、結果として、苦しみやかなしみを増加するのではないでしょうか?  社会には様々な関係があり、時には相反することもあると思います。しかしながら生命には時間と空間と位置という制約のなかで、様々な形でともに生きることを喜びとする関係を築ける可能性を恒に持っていると思っています。



「真の平和」をより詳しく定義すると「すべての生命が恒に共に生きることを喜びとする状態」である。その観点においては、いずれの戦争、紛争も、多くの人を苦しみや悲しみに追い込む、決して正当化されるべきものではない。だが、これまで人は争いによってどれだけ多くの血を無益に流したのだろうか。
平和の完全な達成は不可能であるから、理想の実現は現実という制約を受ける。そして世界の各地では今もなお、戦争、紛争、そしてそれらが残した爪痕に苦しむ人々が多く存在する。
  人類の果たすべき課題は多い。子供たちに明るい未来を。




平和の基礎理論

(「真の平和」とは「ともに生きることを喜びとする社会」である)



1.はじめに
2.平和とは何か
3.平和概念の分類
4.その限界
5.人間の実存
6.ともに生きることを喜びとする社会
7.上記の理想は実現不可能か
8.敵を愛せ
9.具体的にはどのようなものか
10.課題

1.はじめに

現在も世界の各地で紛争が起こっている。現代日本に生きる我々は、戦争や争いの悲惨さを実際に知ることはほとんどない。時々飛び込んでくるどこかの国のニュースか、もしくは歴史書に刻み込まれたわずかな文字によって、その片鱗に触れるのである。そこには戦火を逃れて、自分の家が焼かれるのをただぼうぜんと眺めていた者たち、また、何よりも大切だった人の亡きがらに涙を流した者たち、そして原爆の地獄の炎にすべてを奪い尽くされた者たちの姿があったことを想像することができる。 こうした悲劇の中にいた者たちが、 平和という言葉によりよい社会を求めてきたのだろう。 それでは平和とは何だろうか。この論文ではこの問いに対する答えを導きだし、それを平和の基礎理論として提示したい。

2.平和とは何か

まず第一にいくつかの言語から「平和」に相当する概念を提示し、比較する。
シャーンティ(santih):サンスクリット語。主として霊的に満ち足りた心の平和、内面的な安らぎ、苦痛や快楽にわずらわされない心の平静さ。
パックス(pax):ラテン語。平和にくわえて協定という意味を持つ。
 ミール(mir):ロシア語、セルボ・クロアチア語:平和に加えて「世界」を表す。
フリーデ(friede):ドイツ語。平和を表すことに加えて、「自由な」を表すフライ(frei)や 「友人」を表すフロイント(froint)に関連しているといわれ、さらにそのインド・ゲルマン語の語根”pri”は「愛する」や「いたわる」という意味を持っているとされる。
エイレーネ(eirene):ギリシャ語。戦争のない状態。戦争と戦争のつかの間の状態。
シャローム(shalom):基本的に全体性、完全性を表す。さらに成就、完成、成熟性、成熟性、健全性、一体性、共同体、調和、平静、安全、幸福、福祉、友情、一致、成功、繁栄などの多様なニュアンスを含む。
サラーム(salam):アラブ系の言語。平和に加えて、健康、挨拶を表す。「コーラン」においては現世と来世の平和を表すのにもちいられている。
平和:日本語。「平」は平等、公平、バランスのとれたこと、調和を表す。「和」は ”やわらぎ”を表す。また、諸説によると、人々が穀物を口にして飢えていない状態、稲の穂がなびくような柔らかな言葉遣いを表す。

3. 平和概念の分類

 これらの平和の概念は「内的平和」「外的平和」消極的平和、積極的平和に分けられる。 「内的平和」とは、人間の内面的平和、すなわち心の平和を表す。シャーンティがこれに相当する。一方「外的平和」とは社会関係における平和である。 また消極的平和は「戦争のない状態」であり、エイレーネがこれに相当する。積極的平和は「戦争がないばかりでなく、社会が豊じょう、繁栄、調和、安全、公正、民主、秩序、福祉、人権尊重、豊かな芸術などに満ちた状態」として定義される(*この論文での「積極的平和」はヨハン・ガルトゥング氏の定義と異なる。ガルトゥング氏の定義は「暴力の不在または低減である」「人類社会の統合(integration of human society)」である)。 この積極的平和は、「戦争のない状態」であっても、 圧政、貧富の差の拡大、植民地的関係などのある状態は、「平和ではない状態」と見なして考えられたものである。

4.その限界

だが、従来のいかなる平和概念の中にも、人間の争いや苦しみを想定し得る。例えば心の平和であるシャーンティを達成していても、傍らに飢え、凍える者が存在しうる。戦争のない状態、すなわち消極的平和のなかにも流血の対立があるだろう。"ものや芸術が豊か"であってもそうであるし、"人権が尊重"されていても、人々が、違いに異なる人権を主張し、争うことがある。また、現在法的効力のある人権が尊重されていれば、 人間の幸福が満たされるとは限らないからである(例えば、日照権などは最近出来たものである)。 こうした限界を補足した平和概念を、人間の実存に立ちかえって論じる。

5.人間の実存

人間の生活が位置づけられた外界は常に移り変わる。人間の体も誕生から死に至るまで変化を続ける。生理的状態も一定ではない。したがって恒久的な心のやすらぎはあり得ない。もちろん、ある程度の恒常性は認める。だが、たとえ悟りの境地にたどり着いたとしても、生理的欲求を完全に解消することはできないだろう。人里はなれた場所で、ミイラになるまで欲望を断ち続ける即身成仏の修行のすえにそれが果たされるとしても、現代を"生きる"われわれには無意味かつ不可能な要請である。 人間の生存において実現可能な心のやすらぎとは、絶えず移り変わる外界、自己のなかでつかみ、失い、またつかむといった断続的なものである。 つまり「内的平和」とは、断続的にのみ得られるのである。 このようなことは、「外的平和」においても同様である。人間はその関係において、 お互いにほぼ完全に不快にならない行動をするときもあるが、反対にお互いに反目するときもある。 つまり人間の一生、人間の関係においては、常に喜びに満ちあふれている状態、常に苦痛に満ちあふれている状態、の二つの極を想定することが可能であり、実存としてはその二つの極には決して至らず、その間を揺れ動くに止まるのである。

6.ともに生きることを喜びとする社会

このようなことを踏まえて新しい平和概念を述べる。それは「ともに生きることを喜びとする社会」である。より詳しく定義すると「『人間が、お互いに、常に、喜びをもって生き、その関係においても、喜びに満ちあふれている状態』を、理想として、ある程度を過ぎると現状に満足し、余力があればより良い状態を漸進的に志向して行く状態」である。 常に喜びにあふれる状態を理想として、その目標が「達成」ではなく、「漸進的に志向する状態」となる理由は、現実的には「快」の極には決して至らないからである。これをわたしは先に述べた従来の平和概念の限界を補足した平和=「ともに生きることを喜びとするする社会」であると考える。

補足:

「ある程度を過ぎると現状に満足し」とする理由は、現状を肯定せずに完全を求めすぎることは、逆に喜びに反するからである。「完全を求めることは、人間の心を悩ませる最悪の病である」という言葉がある。また「足るを知る者は富む」という言葉もある。完全を求めることは尊いことだが、現状を肯定せずにそれを求めすぎると、かえって不快や不満、不幸になる。完ぺき主義は鬱の原因ともなりうる。ゆえに、現状を満足とし、その後に改めてより良い社会を志向することも必要である。

しかしながら、例えば飢餓や争いの絶えないような極端な状態であれば現状に満足できない。改善の余地があるのは明らかである。

そこで、まずは現状を「受け止める」べきであろう。

つまり、大まかにいって生物的、社会的に必要とされるある程度が満たされるまでは、現状を受け止めつつも直ちに満足とはせず、ある程度を過ぎると現状を満足として、その後、改めて改善を図るべきである。

また、一部の問題や理想を知らないことも大事かもしれない。それらを知り、それが解決、改善、対応、達成できなければ不快や不満が生じる場合がある。それらに対し、直接の関係が無い場合であっても、知ることがその人の不幸につながる可能性があるからである。

7.上記の理想は実現不可能か

上記の理想は、人間は利己的であるから実現不可能だという批判があるだろう。 確かに完全な実現は不可能である。そもそも、先に述べたとおり、理想の目標は、あくまで「漸進的に志向すること」である。また、人間が利己的であるからという批判については、以下の様に考える。確かに、人間は利己的であることから、利害の対立を生じ、先に述べた理想に大いに反することがある。たとえば人は時として争いを望む。たとえそれが他人を犠牲にすることがあっても、そうである。こうした事例は多いが、一つに挙げるとすればラテン・アメリカにおけるインディアスの虐殺であろう。   また、飢餓が克服され、人によって作られた物質にあふれた状態でもそうである。すなわち、必ずしもすべての人がそれを望まないのである。

 しかし、人間は、また、利害の調節を行うことによって、完全にではないが、お互いに利己的でありながら、先に述べた理想に合致できることもあるのである。 例えば、分業するとき、自分を利する行動が、完全にではないが同時に他を利することになる。利己と利他は必ずしも相反するものではない。そして、人間には調整能力があり、利己行動と利他行動を一致に近づけていくことができる。これらが「ともに生きることを喜びとする社会」のために重要なのである。 言い換えると、人間の利己行動が、すべて否定されなければならないのではなく、利己行動と利他行動のバランスが大切だと思うのである。 そもそも人間が利己行動を行わなければ、先に述べた欲求の理論に基づいて考えると、自分に喜びはなく、そうであれば、ともに喜びであることは不可能である。また反対に、人間が全く利他行動を行わなければ(ある人間の行動の結果が、全く他を利するものでなければ)ともに喜びであることは不可能である。 だから、利己行動と利他行動を一致に向けて調整していくことが重要であると考えるのである。

8.敵を愛せ

 このとき重要なのは敵をも愛する行動であると考える。憎み、傷つけてしまうかもしれない相手が「敵」であるのだが、反対に愛することによって(愛=ここではアガペー:見返りを期待しない無償の愛。好きであること、や性愛(エロス)とは異なる)、時には殺したいほどに高まった対立関係を改善するのであろうと考えるのである。この敵を愛することによって、相手を理解する機会をそこなわず、相手との関係改善の可能性を積極的に保つのである。

9 .具体的にはどのようなものか

ところで、この平和:「ともに生きることを喜びとする状態」は、人間関係が多様であるため、それだけ多様でありまた、どの状態においても、現実には、不完全な状態を含むため、具体例を挙げるとすれば、比較的に、より、ともに生きることを喜びとする状態に近い状態ということになる。 例えば、現在、パレスチナにおいて、ユダヤ人と、パレスチナ人の対立は、いまだに多く残り、テロで多数の死傷者が出たり、パレスチナ人の雇用が事実上制限され、彼らの生活が打撃を受けている状態がある。こうした状態に対して、ユダヤ人とパレスチナ人が、お互いの生活を尊重し(旧ユーゴスラビアにおいて、異なる民族、宗教同士でも、隣人として共存していたように)お互いに恵み(食料であったり、微笑みであったり多様なものであろう)を与えあうような関係が、前者と比較して、ともに生きることを喜びとする状態であると考える。

10.課題

こうして提示した新しい平和概念から現実社会を照らすと、多くの解決すべき課題が残されていることは明らかである。人類はこれまで様々な夢を実現してきた。 残された課題も、実現することができるだろうと思う。



主な参考文献、資料
*飯坂良明:「平和の課題と宗教」中央学術研究所編
*『国際政治学辞典』(東京書籍)
*『平和学-その理論と課題-』(早大出版)
*ラス・カサス:『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)
*M・L・キング:『汝の敵を愛せよ』(新教出版)
*Baljit Singh Grewal: Johan Gultung:Positive and Negative Peace (2003.08.30)
*「完全を求めることは、人間の心を悩ませる最悪の病である」:エマーソン
*「足るを知る者は富む」:老子

(注)冒頭の言葉、2.平和とは何か、3.平和概念の分類の、大部分、は引用。特に、2.平和とは何か、3.平和概念の分類、は飯坂良明:「平和の課題と宗教」中央学術研究所編、『国際政治学辞典』(東京書籍)、『平和学-その理論と課題-』(早大出版)より引用させていただきました。