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ボスニアの民族共存について
*民族の共存について
1.共存の実績
ボスニアでは紛争以前、 人々は混住し、 都市部にその傾向は強かった。
こうした状況の中、 ひとびとは共存していた(1)。
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の民族構成比率はクロアチア人17%、 セルビア人31%、 ムスリム人44%である(1991年)(2)。
これらの民族はボスニアを3つに分け、 分かれてではなく、 バラバラに分布し、混住していた。
よく見かける民族分布図を見ると3民族が分かれているように見えるが、 実際はそうではない。
表はボスニアの都市の4民族(ユーゴ人を含む)の構成比率である。 人々がボスニアに散在する様々な街(図2参照)に共に暮らしていることが分かる。
*ボスニアの民族分布
1991年。「ボルバ」紙より
都市 | 合計(人) | クロアチア人(%) | ムスリム人 | セルビア人 | ユーゴスラビア人 |
総計 | 4354911 | 17.3 | 43.7 | 31.3 | 5.5 |
サラエボ | 525980 | 6.6 | 49.3 | 29.9 | 10.7 |
バニャルカ | 195139 | 14.9 | 14.6 | 54.8 | 12.0 |
モスタル | 126067 | 33.8 | 34.8 | 19.0 | 10.0 |
スレブレニツァ | 37211 | 0.1 | 72.9 | 25.2 | 1.0 |
ツズラ | 131861 | 15.6 | 47.6 | 15.5 | 16.6 |
それでも、 街の中で居住区を別に暮らしていると考えるかもしれないが、 そうではない。
中でも共生の進んでいたサラエボを例に挙げる。 (図3)はサラエボの行政区分図、 表はサラエボの地区別・民族別の構成である。
人々は地区ごとに分かれて住むのではなく、 完全に混ざっているのである。
*サラエボの行政区分別民族構成
1991年。「ボルバ」紙より
| 合計(人) | クロアチア人(%) | ムスリム人 | セルビア人 | ユーゴスラビア人 |
総計 | 525980 | 6.6 | 49.3 | 29.9 | 10.7 |
中心部 | 79005 | 6,8 | 50.2 | 21.1 | 16.4 |
ハジチ | 24195 | 3.1 | 63.6 | 26.4 | 3.4 |
イリジャ | 67438 | 10.3 | 43.0 | 37.2 | 7.6 |
イリヤシュ | 25155 | 6.8 | 42.2 | 45.1 | 4.6 |
ノビ・グラッド | 136293 | 6.5 | 50.8 | 27.7 | 11.4 |
ノボ | 95255 | 9.2 | 35.7 | 34.7 | 15.8 |
パレ | 16310 | 0.8 | 26.7 | 69.1 | 2.4 |
スターリ・グラッド | 50626 | 2.4 | 78.0 | 10.2 | 6.4 |
トルノボ | 6996 | 0.2 | 68.9 | 29.5 | 1.0 |
ボゴスチャ | 24707 | 4.3 | 50.8 | 35.8 | 7.0 |
このことから人々が都市の中でともに暮らしていたことが伺える。
実際、 教育も都市、 農村、 いずれの場合も一緒に行われ、 また、 人々は同じ地区、 高層住宅、 アパートに住み、 職場を同じにし、 また民族の異なる人の結婚や葬式といった宗教儀式に参加(3)するなどして生活を共にしていたのである。
ところで混住(4)には差があり、 農村部では民族に別れてすむ傾向が強く、 一方都市部では混住の割合が高かった。
農村部では、 ほとんどの村は特定の民族のものであり、 異民族間結婚は都市部に比べてはるかに少なかった。
一方都市部では混血が進み、 その比率は40%に達していた。それに加え、 民族主義は政策によって抑圧されていたため民族主義的傾向は弱まり、 特定の民族に忠誠心をもつ人は少なかったのである。
こうした、 複雑な民族の入り組みを現地を訪れた吉岡達也は以下のように報告している(5)。
「ゾランが通り過ぎる村や街の解説をしてくれた。それを聞きながら実感したのが、 それぞれの村や街ごとに、 その民族構成はかなり違っているという事実である。たとえば、 ある村が90%がクロアチア系住民なのに、 数キロしか離れていない次の村ではセルビア系住民がほとんどだったりする。(中略)
法則性もなくランダムに民族構成のことなる村や町が点在しているといった状況なのだ。
さらに時には、 チェコ人がほとんどという村や、 ハンガリー人が半数いるといった村までそこに混じってくる」。
こうしたことから、 吉岡達也が指摘しているように(6)「ここがクロアチア領、 ここがセルビア領というのはかなり意図的に作られた人工的な議論」であって「実態に即して言えば多民族が共有する領土というのが一番しっくりくる」のである。
- (1)歴史的な背景については、 補論参照(予定)
- (2)民族構成比率はFAMA(P3art and environment訳,柴宣弘監修):『サラエボ旅行 案内』,(三修社企画,1994)P.102.
- (3)「異なる宗教儀式に参加」については:柴 宣弘:(朝日新聞 94.3.15.夕刊)より。(4)職場、 学校、 結婚の様子、 民族への忠誠心はすべて:ロバート・J・ドーニャ, ジョン・V・A・フィアン著, 佐原徹哉,他(訳)『ボスニア・ヘルツェゴイナ史』,
1995, 恒文社.P.191-192.
- (5)吉岡達也:『殺しあう市民たち』,(第三書館,1993).P.79
- (6)吉岡達也:『殺しあう市民たち』,(第三書館,1993).P.79.