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モスタル、共存への課題。


At Mostar At Mostar

「民族の共存が本当に回復にむかっているのだろうか?」
 こうした疑問を持ち、また以前からボスニアでの宗教の平和活動に関心を持っていた私 は、1996年3月、紛争前、多民族の寛容の中心であり、またボスニア和平実現の要であると言われる都市モスタルを訪ねてみた。だがそこで見たものは今も共存からは遥かに遠く分断されてゆく街だった。

概観

あちこちに瓦礫となった家やビルが残るが、街は一見平穏に見えないこともない。人や車の往来も活発であるし、昼下がりのカフェにはたくさんの人が集まっている。 日曜日の公園ではたくさんの家族連れがくつろいでいた。あちこちに小さな花の見え隠れする下草の茂る広い公園では、父親が子供たちのサッカーの相手をしている。母親たちがベンチに座って談笑しながら子供たちを見守っている。どこにでもある光景だ。  「民族同士の憎しみなんて違うわ。私は東側、彼女はここ(西側)から来てるけど私たちってこんなに仲良しだものね」とホテル”ERO”で働く女の子二人組は笑顔で話す。 復旧も少しずつ進み、街は活気を取り戻しつつあった。復旧の遅れていると言われる東側でさえ真新しい信号機、交通標識が並び、建物にはガラスが入っていた。 また、所々に家を建て直すための煉瓦が所々に積まれ、いくつかの大きな建物の周囲には修復のための足場が組まれ、街を立て直す男たちの姿を見ることができた。品物も、どこの商店、キオスク、市場にも豊富に並んでいた。

進む分断

だがこうした市民の暮らしは一部の急進分子と政治的な力によって引き裂かれつつあった。 モスタルを2つに隔てる急流ネレトバ川を挟んだ東側と西側ではお互いに異なるシンボルマークを広範囲にわたって分布させていた。 東側では百合と剣の柄のはいった青い盾、西側では三色旗紅白のチェックのはいったシンボルが行き渡っていた。それらは前者がボスニア、後者がクロアチアの国旗である。  政府関係と思われる建物にそれぞれの大きな旗が掲げてあっただけでなく、レストラン、カフェ、そして床屋などの方々の店の中にはそのシンボルのはいった額縁が掲げてあった。西側の数カ所では道路の上を横断してクロアチア国旗が掲げてあり、妙なことにクロアチアに来たような気分になる。街のキオスクでは観光用のポストカードが売られていたが、西側と東側ではそれにやはり異なるマークが入っていた。人の顔写真の載った死亡告知書が町中の電柱や掲示板に見かけたが、これも一方にはイスラムの象徴である月のマーク、一方には十字架のマークが入っている。死んでまで分断に関係しているのだ。 言うまでもなく通貨も異なる。東側ではボスニアのシンボルが入ったボスニア・ディナール、西側ではマルクそっくりのクロアチアの通貨、クナが流通している。 ネレトバ川には頑丈な鉄骨製の橋が破壊された橋に替わって再建されていたが、橋を越えた往来はそう多くなかった。  というのは西側ではクロアチアのマーク、東側ではボスニアのマークのナンバーを着け た車しかまず見ることができない。西側の宿に行くために東側で拾ったタクシーも、橋を渡ったすぐのところまでしか運んでくれなかった。 双方の通行の自由は和平合意によって公式には成立しているのだが、それ以上は「行けない」という。両側で共通して見ることが出来たのは車はEUのパトロール車ばかりだった。 殺人も起きている。「昨日そこの小学校の校庭で友人の知人が殺された。校庭には血がたくさん残っていた」と西側で知り合った青年が話してくれた。 どうして殺されたのかは「わからない」とだけ答えた。宿の主人にこの話をすると「新聞でもテレビでも報道されなかったから知らない」という。 夜に銃声を聞いた日が5日 間の滞在のうち2日あった。 私は、こうした分断やそれを維持する圧力の背景には、まず第一に軍事的、経済的に重要なモスタルの奪い合いという構図があると考える。モスタルはボスニアの主要産業であるアルミニウムの主要産地であるだけでなく、連邦空軍基地、多数の重要な軍事工場が存在するのである。   次は紛争の再燃のねらいである。民族主義や民族の敵対を領土的野心の隠れ蓑にしてきたものたちが、民族の共存という現実を破壊しようとしてきたのがボスニア紛争の本質的な一面である。和平合意の理念に反するこうした行為は、現在ボスニアに展開している平和執行軍の撤退後をにらみ、現在の領土の維持と将来の拡大をねらっているものであろう 。

カトリックとイスラムの関係

 最近までイスラムの人道援助団体、メルハメットに勤めていた人が、モスタルでのカトリックとイスラムの関係について話してくれた。 「我々の協力はあまりない。たまにカリタス(カトリックの人道援助団体)の方から提 供があるがその量もそう多くはない」 毎週金曜日にミーティングを持っているサラエボとは違う。 「西側に6つから8つほどあった我々のオフィスは戦争によって破壊されてしまった。なかには8ー10部屋を有し、コンピューターを備え、食料、病院を提供していたオフィスもあったのだが」  紛争に伴って援助すべき対象がほとんど相手側にいなくなってしま ったことも、橋を越えた協力が行われていない原因とも考えられる。紛争前約2万人であった西側のムスリム人の人口は現在では1000人ほどと推定される。  将来の展望について尋ねてみた。
「以前と同じようにはならないだろう。我々は共に生きることを望んでいるのだが」  これを聞いて現地のカトリックのシスターの言葉を思い出した。
「民族の違いの前に我々はすべて等しいのです」「すべての人は神の子なのです」 これらは尊い理想である。だが彼らは、これから何を実行していくのかについては語ってくれ なかった。人々の苦しみ、憎しみ、誤解を和らげるという宗教の持つ重要な役割にたいして未だに具体的なプランがないというのである。

共存への課題

モスタルは、メヂュゴリエという、聖母マリアの霊が紛争前の1984年から降臨し、人々に平和を説い ていると言われる場所の近くに位置する町である。 けれども私が街で見た現実は彼女の 慈悲の現れでなく、上に述べた分断と、あちこちにある真新しい墓に花を捧げる多くの人々の姿であった。彼らの悲しみを癒し、そしてこれ以上の悲しみをなくすためには、人々のより多くの努力と献身が必要であると思う。

1996年3月

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