ホーム


エターナルハピネスのビジョン



エターナルハピネスのビジョンとは究極的には「すべてが永遠に幸せである状態」である。ただし現在をまずはこれで良しと肯定する。幸せは今ここにあると考える。そう考えることが心の平和に直結するからである。そのように現在を肯定した上で、より良くしていこうと考えるのである。2022年現在のわたしのエターナルハピナスのビジョンは次の通りである。


(1)幸せに存在し続ける
(2)労働からの人間の解放
(3)地球上での戦争、紛争の終結(加筆・修正予定中 2019.8.19時点)
(4)ともに生きることを喜びとする社会
(5)他の生物との共生
(6)永遠の武力の向上
(7)平和的解決能力の向上と実践(2022.3.2追記)

(1)幸せに存在し続ける

①「幸せ」の定義:生きる上での「幸せ」とは何か?


わたしは、「幸せ」とは、「ポジティブな(良い)感覚を得ている状態」であるとする。
複数あるポジティブな感覚については、諸氏の定義を引用する。
---------------------------------------------
「楽しい、うれしい、気もちいい、安らかな感じ、ワクワクするような期待感、様々な感動、充実感、達成感、様々な愛の感じ、しみじみとした幸せ」(本多時生:『幸せグセのつけ方』p20)

「幸せ(=に近い)ポジティブ感情=「喜び」「感謝」「安らぎ」「興味」「希望」「誇り」「愉快」「鼓舞」「畏敬」「愛」」(バーバラ・フレドリクソン:『幸福優位7つの法則』p57)
---------------------------------------------
ところが、この定義に対して「幸せという言葉にはもっと素晴らしい、最高な意味合いがある」「定義が不十分」といった反論があるかもしれない。

ひょっとしたら、そうした「最高の状態」があるのかもしれないし、幸せという何か得体のしれないものが実在していて、私たちがそれを十分に把握していないだけかもしれない

しかし、わたしは冒頭にあるように定義した。なぜなら、冒頭の定義は、少なくとも(最高のあるいは、得体のしれない)全体的な「幸せ」を構成する要素のうち、かなりの部分であろうと考えたからだ。また、冒頭の定義により、現実の社会政策や個人の行動における具体的な目標となり得るほど、「幸せ」の内容が具体的となるからだ。言い換えると、幸せのために何をすればよいのか、どうなればよいのか、政治的にも個人的にも理解可能となるからだ。

異論や反論、意味の追加といったことを歓迎する。それにより、より完全に近づくであろうからだ。

ちなみにこうした幸せの状態の時、人間の脳内では、ドーパミン、エンドルフィン、セロトニン、オキシトシンが分泌されている(脳内化学物質のバランスの取れた状態を前提とする)(精神科医、樺沢紫苑氏)。こうした脳内化学物質の量からも幸せは測れるかもしれない。

②幸せな人生とは何か?
この問いに対しては、本多時生氏が提案する幸せな人生のイメージを全面的に引用する。

「日々小さな幸せをいくつも感じ、時々中ぐらいの幸せを感じ、たまに大きな幸せを感じられる可能性のある人生」(『幸せグセのつけ方』p39)

ここでいう、「日々」は「毎日」、「時々」は「週に数回から年に数回」、「たまに」は「何年かに1回」ぐらい。
・小さな幸せは日々の生活の中で出会うちょっとした幸せ、いつもしていることで得られる幸せ、すでに自分もっている様々な幸せ。
・中ぐらいの幸せは、旅行、行楽地へ行く、映画やスポーツを観に行く、祭りなどの地域や学校の行事に参加する、ボランティアをする、好きな人と会う、美味しいものを食べに行く・・・。
・大きな幸せは、自分の夢や大きな目標を達成すること、何かの分野で成功すること、愛の獲得(相思相愛の関係・結婚など)、得難い何かを手に入れること、貴重な経験をすること。
(同p37)

③病気、老い、死のない世界。(結論未確定)
生きる上での苦しみである病気、老い、死を、医学の進歩によってできるだけ減らす。
けれども、それだけでは人口爆発によって人類が滅びる恐れがある。
「生ー死の循環社会」か、あるいは「病気、老い、死がなく永遠に若々しく生き続ける社会」のいずれが良いかわからないが、幸せを考える上で避けられい問題である。今の私にはどちらが良いか、あるいは別の解答があるのか、わからない。


④死後の幸せとは何か?
死後の世界が存在するのか、本当はどのようであるかは、今の私は知らない。もし、死後も存在し続けるのであれば、死後の幸せについても考えるべきであろう。もし、苦しみや悲しみのない天国が存在するのであれば、すべてがそこに存在すべきだと考える。もし永遠の地獄があるならば、その存在に反対する。獄は犯罪を抑制、予防するための場所、善へと更生するための一時的な場所であるべきだと考える。

TOPに戻る

(2)労働からの人間の解放
ほとんどの労働をロボットが行い、人間を労働から解放する。健康で文化的な最低限の生活を送るために必要な労働のほとんどをロボットが行えば、人間ははるかに自由になる。わずかな労働を行うだけで済むようになる。例えばどのような生活だろうか?イメージとしては毎日がほぼ日曜日。朝、のんびりと朝食を食べた後、今日はどのように過ごそうか考える。今日はいい天気だ。家族でハイキングにでも出かけようか。面白いテレビも放送している。家でのんびりしているのもいいな。確か先週、ミシュラン3つ星シェフ以上の腕を持つロボットが調理を行うレストランがオープンした。夕飯はそこで食べようか。ウェイターやウェイトレスは人間。週1回4時間労働を行っている。彼らも私も働かなくてもそこそこの生活はできるが、追加の収入が欲しい。職に就くのも良いが、自由な活動の成果が国や他人から評価され、追加的な金銭を得ている人もいるようだ・・・という感じだろうか。

ロボット化を進めるとき、国内、国際の両面で、協調が必要である。
なぜなら、ロボット化の進め方によっては人間が解放されないこともありうるからだ。ロボットが人間から職を奪い、多くの失業者が苦しむとも考えられる。
さらに地球社会が全体的にロボット化において協調しなければ、一部の国の多くの人々が失業するかもしれない。なぜならロボット化を進めた方がサービス、品質、価格競争、などで優位であったら、人間が労働を続けた方のグループの労働者たちが職を失う可能性があるからだ。
このようにロボットが人間から職を奪うことになるのだ。

この状況に対してBI (Basic Income)という考えを紹介したい。働かなくとも国が国民にある程度の給付金を与えるというものだ。強制的な必要労働から人間を解放し、働かなくても一定レベル以上の文化的で健康的な生活を国が保証するのだ。そうすると、人間の活動の自由度が高まる。
BIに対しては批判がある。「自由になった人間が自由を持て余して悪さをするかもしれない」というものだ。しかしそれは今の失業と同じ。むしろBIのほうが安定するだろう。また人間の趣味や目標が社会的に健全であるとよいだろう。

TOPに戻る

(3)戦争、紛争の終結→平和構築

(加筆・修正予定中の為、一時削除致しました。(2019.8.19))

TOPに戻る

(4)ともに生きることを喜びとする社会
1~3に共通する目標となるのが「ともに生きることを喜びとする社会」である。生きることにおいて、個人としても人間関係においても、喜びがある状態。「いつもそうである」と「まったくそうでない」の双極の間にあるという現実において、喜びの極に近づけていこうという考え。詳細は同じタイトルの論文を参照されたい。世界では民族や宗教、国家の対立があるが、それを乗り越えてともに生きようという趣旨でもある。

TOPに戻る

(5)他の生物との共生>
平和は人間だけのものだろうか?
動物との共生も平和に加えるべきだと考えるのである。
弱肉強食が既存の自然のあり方だとしても、何もそれに従う必要は無いの
だ。より良いルールの世界を築けばよいのだ。

食肉に反対しているわけではない。
動物を殺さずに肉を食べられる時代を築くべきだと考える。
一見矛盾しているが、実は実現化に向かっているのである。
それらは、人工肉の培養、脳一部の無い家畜(ニワトリ)のプラントなどである。
もっとも現段階では研究不足とコスト高とのことで、十分実用化されていない。

人間は細菌を殺さなければ生きていけない宿命だが、無益な殺生は減らすことはできる。
可能な限り、遺伝子操作によって、弱肉強食を減らしてゆくべきなのだ。
食物連鎖によって保たれている生態系も、同時に改善することが必要だ。
わたしは過去に意図せずとも他人のペットを死なせてしまったことがある身だが、
皆で可能な限り動物とも幸せな平和を築いていくことを提案するのである。

TOPに戻る

(6)永遠の武力の向上
平和と軍拡は一見矛盾するが、私はそう考えない。
前提となる真実として、「全世界(すべて)の広がりは無限であり、それは永続する」ことを提示する。そのことについては別の論文を参照されたい。
さて、無限にして永遠であることは、未知の脅威が永遠に存在することを意味する。ゆえに平和の防衛、紛争の抑止のためには軍事力は永遠に向上していく必要がある。

人は話せばわかる、武力なしで話し合いだけで解決できるという批判があろう。
けれども私は次のように考える。

確かに武力なしの話し合いで解決できる場合も多く存在し、その事実は尊重すべきだと思う。
けれども、
1.相手が人とは限らない
2.双方が応じなければ話し合いは成り立たない。
3.考え、話し、記憶し、平和を望むといった理性を保つための防衛能力がなければ、それに反対する力に話し合いが破壊されてしまう。
4.双方が平和を望むとは限らない。
5.武力は抑止力となりうる

これらのことから、永遠に武力を向上させながら、平和を拡大、発展させていくべきだと考えるのである。

TOPに戻る

(7)平和的解決能力の向上と実践

なによりも、紛争は平和的に解決されるべきである。平和的解決は武力による抑止を補完するものである。武力による抑止は必要だが、抑止で済まず、武力行使に至ってしまった場合は、平和の「一時的敗北」である。すなわち、そこには流血や涙、悲しみがある。平和な暮らしや愛する人などを失ってしまうのである。
 
 そのように抑止のバランスが崩れ、紛争が起きてしまった場合はどうだろうか?
その時こそ、平和的解決を実践すべきである。 
 いつでもみんな仲良しが理想だが、時にはいがみ合い、意見の対立、喧嘩、犯罪、紛争、戦争が起きてしまうのが、現実だ。そうした「紛争」を、正義が実現しつつ、双方が納得し、満たされるように解決していくのが、平和的解決だ。
つまり、必ず起きる「紛争」を平和的に解決していく状態こそが、現実的平和である。
  平和的解決は、時には難しく、時には容易だろう。いずれにせよ、そうした「紛争」の平和的解決能力の向上と実践が、平和のために、絶対必要である。

平和教育においては、戦争の悲惨さばかりを教えるのではなく、紛争解決能力を向上させるべきではないだろうか?

まとめ:
わたしたちは、武力という破壊力の向上だけでなく、平和的解決能力の向上に努め、その能力を発揮して、武力による抑止を発揮しながらも、可能な限り、その行使に至らず、平和を継続すべきである。武力行使に至ったとしても、それは平和的に解決すべきである。

TOPに戻る