結論:「最小国家」の解釈を拡大することと、博愛主義に力を十分持たせることによって、みんなの幸せと自由至上主義は両立することができる。
前提となる理解:
自由至上主義(リバタリアニズム)とは、「自由市場・最小国家・社会的寛容(個人の自由や財産への相互不可侵)を基調とする、「自由」を最も大切なものとする主義」であると理解している。その前提に基づき、その「最小国家」と「社会的寛容」に着目しこの記事を進める。
その問題点:「互いに干渉しない」ことは、聞こえは良いが、傍らで、飢え、渇くものを放置することでもある。それでは皆が幸せでない。弱っている人を助け、時には強くすることが、皆の幸せのために必要なのである。だが、それでは自由が妨げられるという。「必ずしも助けないというわけではない。助けるのも自由、助けないのも自由、あるいは助けるのは政府でなく民間の慈善団体にほぼ任せる」「自分の財産から税金を払って他人を助けるのは違和感がある」ということらしい。
政府が皆を助けるということは、一見「最小国家」と矛盾するが、「皆の自由と幸せを守るための必要最小限」と考えてみてはどうだろうか?
自由至上主義者(リバタリアン)は無政府主義者を除いて政府や税金を完全に否定しているわけではない。
必要最小限の権力を与え、税金を払うというのだ。
だから、その必要最小限を「皆の自由と幸せ」と考えることにより、みんなの幸せと自由至上主義は両立できるのである。
慈善活動は民間の慈善団体に一任すればよい、とする問題点は、比較的だが民間ならではの不安定さと力の弱さである。もちろん、指摘されるように、公による慈善も問題点はある。一長一短である。すなわち、比較的だが、民間による慈善の長所は「融通が利きやすい、深く関われる」ことであり、短所は先に述べた通り「不安定で力が弱い」ことである。政府による慈善の長所は「安定し、力が強い」ことであり、短所は「融通が利きづらく、浅く関わる」ことである。
したがって、博愛主義者と慈善団体が、公でも民間でも両方とも十分に力を持つべきである。そうした人たちが特に貧しきもの、病めるものといった弱者をも保護することにより、自由至上主義者が他者に干渉せず、個人の自由を追求しても、すべての人の人権、暮らしが保護され、幸せの基礎が得られるのである。
言い換えると、まず政府が飢えや貧困といった地獄的束縛からの自由の基礎をすべての人に与え、民間がそれを補完し、自由至上主義者は自由に生きるのである。
要は「最小国家」の解釈である。すべての人々を守り、自由を侵害しない「大きな力を持った「最小限」」だと解釈していただきたい。
「自分は自由に生きる、慈善は博愛主義者に任せる。自分たちが自由に生きるために、そうした人たちに多少のお金と力を与えよう」といった境地が望まれるのである。
具体的には、博愛主義の、政治家、ベーシックインカムといった政策、企業、慈善団体などに資金援助や投票を行うといった支持活動を展開するか、税金を払いつつ寄付などしてあとは自由に生きられるのである。
自由を愛する人よ、愛に力を与え、委ねてはどうでしょう!
参考:
渡辺靖 『リバタリアニズム』中公新書, 2019.
コトバンク:「リバタリアニズム」:https://kotobank.jp/word/リバタリアニズム-18598989/